赤線協定が生んだ中東分割 3

こんな人に読んでほしい!

  • 中東分割に興味がある人
  • 歴史が好きな人
  • 石油について関心がある人

こんにちは!ななみです。

今回は赤線協定の3つめの記事になります✨

 

赤線協定が生んだ中東分割 1

赤線協定が生んだ中東分割 2

 

ドイツはヨーロッパの中でも早くから石油の価値に気づき、オスマントルコへめざましく進出していきました。アナトリア鉄道の大幅な延長やその全線の両側20キロの鉱物権というドイツにとって大ボーナスな契約まで交わすようになります。ここで問題が起きました。「契約」の概念が違っていたのです。スルタンにとって「契約」は、その場の気分でどうとでもなることでした。よってスルタンは、アメリカとベルギーに同じような利権を与えていたのです。出遅れたイギリスは様子を伺っていました。

 

ちょうどガルベンキヤン(ガルベンキヤンについてはこちらの記事をご覧ください)がコンスタンチノープル(現イスタンブール)に着任して1年が経過していました。その頃オスマントルコ帝国で革命が発生し、スルタンが追放されるという出来事が起きます。オスマントルコ新政府はドイツの利権を認めることを拒否、ドイツは軍事的な措置も辞さない高姿勢を見せました。緊迫状態の味をしめたのはイギリスです。トルコのエキスパートでありながら、イギリスに対する忠誠心を兼ね備えた人物をトルコに送り込みます。ここで、ガルベンキヤンが登場します。彼はアルメニア(オスマントルコ帝国の一部)出身でありながらイギリスの市民なのです。

 

ガルベンキヤンは各国と個別交渉に乗り出します。「このままではトルコの思うツボだ」という論法で、西側諸国だけで会社を作りました。過当競争を避けるためでした。ガルベンキヤンは、各国のパワーバランスを均衡にさせることで、なんとか5%の株の死守に成功します。これがMr. 5%の名前の所以なのです。

 

その後、1914年、歴史は大きく動きます。

落合信彦さん著 『石油戦争』はこちら

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